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212.最近('09前半)読んだ本から2

2009.10.2


 「最近読んだ本から」シリーズであります。本当なら「聴いた・観た・読んだ」でやることのはずなんですが、これまでも何回かネタに困ってこちらで書いております。まぁ、ある程度の文字数になりますので、こっちでもいいかなぁ、という自分基準の判断であります。
 それでは、書いてみましょう。今回は2冊です。

ロマン派の交響曲 『未完成』から『悲愴』まで / 金聖響 + 玉木正之 / 講談社現代新書
 これは、#140で書きましたベートーヴェンの交響曲の続編ともいえる本で、金聖響さんと玉木正之さんとの対談をはさみつつ、金聖響さんがタイトルのとおり、シューベルト、ベルリオーズ、メンデルスゾーン、シューマン、ブラームス、チャイコフスキーの交響曲について解説を進めていきます。また、玉木さんの構想に寄れば、今後はマーラー、ブルックナーへとつなげて行きたいそうであります。
 少し前に書いた、交響曲をコンプリートしたいという私に打って付けという内容でありまして、私がまだ揃えていないシューベルト、メンデルスゾーン、シューマンのあまり聴くことのない曲についてまで説明があり、いい曲を書いていますよと教えてくれています。また、#184で書きました、吉松隆さんの夢見るクラシック 交響曲入門と合わせて読みますと、交響曲(主にロマン派ですが)に対する理解が進み、聴きたくなります。ぜひ、皆さんにもお読みいただきたいと思います。


もう一冊は、私にとってかなり難解でありました。

カラヤンがクラシックを殺した / 宮下誠 / 光文社新書
 ちょっとショッキングなタイトルですが、カラヤンについての功罪の罪の部分を断罪するという内容なのかなと想像して読み始めたのですが。私の読解力の不足なのか何を仰っているのかよく分かりません。同じような事を繰り返しいるように思えますし、哲学用語がぽんぽん出てきます。
 カラヤンの功罪というのは、美しい映像と絢爛豪華な演奏でクラシック音楽を産業化し大衆化したということ(かな?)。大衆化され、多くの人が聴く様になったことは功の部分であると思われますが、そこに流れる音楽は豪華なだけで深みも味もない演奏であり、そんなものをクラシック音楽として広めてしまったのが罪ということ(かな?)なのです。
 もともと、私は演奏者にそれほどの重点を置いていないので、カラヤンの演奏だろうと、オーマンディーだろうと、アバドだろうと、それほど気にしないのですが。こういうおバカな聴衆はやっぱりいけないのかしら。

 著者の宮下誠さんは、國學院大學文学部教授であり、スイス国立バーゼル大学哲学博士であります。私より二つ年長なだけですが、かなり立派な方であります。哲学博士なので、そういった見地からの分析がなされているのでしょう。
 ところが、最初に想像したような内容に似たようにことは言っているのですが、「それはカラヤンのせいではなく、時代の流れってヤツなんじゃないですか?」と思えるのです。著者自身も「カラヤンだけのせいではない。」の何度も書いていますし。
 あとは、オットー・クレンペラーとヘルベルト・ケーゲルについても書かれていますが、褒めているのか貶しているのか、カラヤンとどうつながるのか、よく分かりません。やはり読解力不足ですねぇ。
 Amazonのカスタマーレビューをいくつか見ると皆さん読解されているようで、そこで分かったこともありますが。

 宮下誠さんの本は、20世紀音楽 クラシックの運命 (光文社新書)を読んでおりまして、こちらはワーグナーから現代までを網羅的に俯瞰できるように書かれており、硬い内容ではありますが良い本であります。こちらの本ではある意味自分を殺して書いた部分があったのであって、カラヤンが~では、自分の書きたい事をすべて吐き出したという気もします。


 さて、この本で一番面白かったのは、285ページの謝辞であります。その一部を引用します。

 驚きとともに付言しなければならないことがある。今まで私の仕事を蛇蝎の様に嫌い、頑なまでに無視し続けてきた妻、香が今回は校正の筆を執ってくれた。神の悪戯か悪鬼の冗談か、俄には決め難いが、いずれにしても空恐ろしい。ともあれ、労うに限る。お祓いの意味も兼ねて、心からありがとう。

 奥様に嫌われている仕事って、、、。こういうところに反応してしまうなんて、読解力がなくて本当にすみません。

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