直線上に配置

228.未完成

2010.1.23


 先日、タワーレコード新宿店へ行ってエルガーの交響曲のCDを探したときのことです。第3番は未完成であり、他人により補筆完成させれられたということは知っていたのですが、あるものならば聴いてみたいと思い第3番までがセットになったCDを買いました。それで、エルガーのコーナーを見ていて“”という曲を見つけました。

 エルガーといえば、行進曲「威風堂々」が代表作であり、吹奏楽でもよく演奏されますね。第5番まである「威風堂々」のうち最もよく演奏されるのが第1番であり、次いで第4番でしょう。第2、3、5番は比較的少ないと思われます(あくまでも私が思うだけですが)。第2、3番は短調なので人気が無い(私は好きですが)のかなと思いますが、第5番の演奏機会が少ないのは、よく分かりません。スケール感があって「威風堂々」のフィナーレにふさわしい曲だと思うのですが。
 吹奏楽版の譜面を「楽譜ネット」で検索してみると、第5番だけは出版されていないようです。何故でしょうかね。

 話をCDのコーナーに戻しまして、“”と思ったのは、
「威風堂々」第6番
という曲があったのからです。5番までのはずだっだけれどなぁ。Boosey & Hawkesのスコア(HPS905)も持っておりますが、“Nos.1-5”となっております。第6番というのは聞いたことがありません。
 CDを見てみると、Anthony Payne という名前が見えました。これは、交響曲第3番を補筆完成させた人です。じゃあ、同じように威風堂々第6番も補筆完成させたのでしょう。こちらのCDは予算の関係で買わないでおきました。

 帰宅してから、いつものウィキペディアでエルガーの交響曲第3番と「威風堂々」第6番について調べてみました。参考文献のリンク先をご覧下さい。これによりますと、「威風堂々」第6番が補筆完成されたのは2005~06年の事のようです。ごく最近のことではないですか。これは余程の事がないと知られないですね。日本初演は2007年7月8日ということで、私は東京から引っ越してしまった後なのでコンサートの情報も見ることはなかったのでした。

 どちらの曲も、ほとんどがスケッチの状態でかなりの部分が補筆されたようです。そうなるとやはり本人の作品と言っていいのかなぁと思ってしまいますね。「未完成」といってもオーケストレーションのほとんどがされていないのですから。

 「未完成」といえば、シューベルトが有名であり、わざわざ「未完成交響曲」というくらいなので、私は未完成な曲は曲はこの曲だけで、他の作曲家の曲は全て完成されていると思っておりました。
 時々、CDの解説などで、完成間際に作曲者が亡くなってしまい他人が残り数小節を完成させたという記述は見たものの、それほど多くはないと思っておりました。
 しかしちょっと考えてみれば、作曲家が死ぬまで創作活動を続けていれば、ちょうど作曲中の曲が無いときに亡くなるという確率は低いわけで、どの作曲家でも未完成の曲はあり得るわけです。晩年に作曲活動をしなかったシベリウスでも、そういう未完成の曲は無いでしょうが途中で破棄してしまった曲は有ると思います。
 #218でチャイコフスキーの交響曲第7番について書きましたが、いろんな人がいろんな人の未完成作品を本人作として完成させてしまうことが起きるのは少なくないのではないかと思えます。やはりそういう曲は本人作とはしない方が良いと思うのです。

 ただ、困ってしまう曲もいくつかあります。
 ムソルグスキーの交響詩「禿山の一夜」(この曲は未完成だったわけではありませんが)などはリムスキー=コルサコフが編曲したものが、本人のオーケストレーションとはかなり違うものですがスタンダードになってしまっていますし、ボロディンの歌劇「イーゴリ公」のかなりの部分は、リムスキー=コルサコフやグラズノフが補筆しています。
 ここまで有名になってしまった曲は「仕方ないなぁ」と思わざるを得ないですね。

 ということで、またしても取り留めの無い話になってしまいました。他人が補完した曲ばかりを集めてみるということも、話のネタとして面白いかなぁ、と思いつつ今回はお終いに致します。

【参考文献】
ウィキペディア フリー百科事典 エルガー 威風堂々 禿山の一夜 イーゴリ公

前を読む 『休むに似たり』TOP 次を読む



Copyright(C)2005-10 T.Miyazawa All Rights Reserved.

直線上に配置