私の性格は、というと「几帳面、真面目」であると思うことは多々あるのですが、実際の行動はどうなっているのかというと、細かいことまで几帳面にはやりきれないので、開き直って大雑把なことが多いのであります。要するに、気持ちに行動が追いついていないと言うことですね。で、そういった行動を続けていると、気持ちの方も、だんだんと几帳面でなくなって来るようです。 この編曲と言う作業をするに当たっては、「クラシック曲を吹奏楽に編曲する意義。」なんて事を、真面目に考えようとしたこともありましたが、「考えてたって編曲は進まないから、演奏したいと思ったらやってしまおう。」などという、ある意味短絡的な行動の結果だったりします。 この、「クラシック曲を吹奏楽に編曲する意義。」というのは、プロの方にとっても悩みのようで、なかなか正解にたどり着く事は出来ないようです。私も、度々似たようなことは書いてきておりますけれど。 短絡的な行動とは言うものの、時には思い出して考えてはいるものです。先日、当ウェブサイトをご覧頂いている黒一点さんから「面白いCDがありますよ。」ということで、CDをお借りいたしました。2枚お借りしたわけですが、2枚ともがクラシックから吹奏楽への編曲物でありまして、そのライナーノーツに非常に興味深いことが書いてありましたので、引用して考えてみたいと思います。 SACRAMBOWレーベルのギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団の1995年の日本公演のライブ録音(OVSL-00019)です。曲目は、ムソルグスキー作曲/組曲「展覧会の絵」、ストラヴィンスキー作曲/組曲「火の鳥」、ワーグナー作曲/楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第一幕への前奏曲、などが入っております。 ライナーノーツには、曲目説明と楽団の解説の次に、「編曲について」という文章があります。 編曲について しかし過去に目を向けてみよう。経済的、社会的状況によって演奏会場に行けなかった大多数の人々にとって、音楽文化に近づく手段はどのようなものだったのだろうか?それは公園などの音楽堂である。そこでは軍楽隊、アマチュア合唱団、ブラスバンドなどが多少うまい下手もあるし、時々技術が不完全だったりするが、日曜日の午後の外出を楽しませようと一生懸命演奏していたのである。その後楽器製造の進歩と芸術教育の大衆化に伴って吹奏楽団が発達し、この編曲という伝統の質を高めつつ伝承して来た。音楽の普及に関するここ数十年のテクノロジーの進歩にもかかわらず、この編曲の伝統は現在も、非常に多くの聴衆や演奏家たちに交響楽の大作への手ほどきをし続けていると、私は確信している。 そうした教育的効果は確かに否定出来ないが、編曲は芸術としては、どれほど洗練されたものであろうか。実際編曲の多くが、金管楽器に過度に重要性を与えるという欠点を持ち、往々にして全体的な効果のために楽器の音色を犠牲にしている。入念さに欠ける「編曲家」は、演奏を簡単にするという疑わしい意図の下に縷々原曲を改竄することにもなるのである。 フランスの吹奏楽団の最高峰、ギャルド・レビュブリケーヌ吹奏楽団は、作曲家が望んだオーケストレーションに可能な限り忠実な編曲しか演奏しないことに名誉をかけている。このユニークな軍団に名声をもたらしてきた、そしてこれからももたらしていくであろうこのような芸術的品位の追求が、幅広く、音楽的に質の高いレパートリーを日本の聴衆に紹介することを可能にしてくれるのである。
前段には「音楽の純粋主義を擁護する人々はしばしば、編曲は作品の精神を曲げてしまうと非難する。」などと言うことも書かれており、これが編曲者にとっての悩みになっているわけです。非難されることではなく、作品の精神を曲げてしまうことですね。これに対するひとつの回答が、吹奏楽編曲は演奏会を簡単には聴けなかった多くの人々の音楽文化に近づく手段となったことであると言っております。 【参考文献】 Mussorgsky / Pictures at an Exhibition, Suite / L'ORCHESTRE D'HARMONIE DE LA GARDE REPUBLICAINE / ROGER BOUTRY SACRAMBOW(OVSL-00019)のライナーノーツより |