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36.一皮剥けるとき

2006.5.27


ハイドン 104曲
モーツァルト 41曲
ベートーヴェン 9曲
シューベルト 8曲
メンデルスゾーン 5曲
シューマン 4曲
ブルックナー 11曲(0番、00番、1〜9番)
ブラームス 4曲
サン=サーンス 3曲
チャイコフスキー 6曲
ドヴォルザーク 9曲
マーラー 9曲
シベリウス 7曲
プロコフィエフ 7曲
ショスタコーヴィチ 15曲

 生涯の中で交響曲作曲が大きな比重を占めたと思われる有名な作曲家と、その交響曲数(番号の付いた物)を挙げてみました。
 まぁ、シューベルトは曲数は多いけど「歌曲の人」だし、シューマン、メンデルスゾーンは交響曲作曲が大きな比重を占めたかどうかは疑問だし、サン=サーンスもなぁ、、、と言うように多少思うところはありますが。
 とりあえず、これらの人たちは交響曲作曲家と言っていい人たちでしょう。(うーん、やっぱりサン=サーンスは違うか?)
 
 私は、これらの曲のすべてを聴いているわけではないのですが、作曲家が交響曲を作り進む上である進化のパターンがあると思うようになってきました。

 こんな感じです。
 とりあえず1曲書いてみます。これが第1番(あるいは習作として番号が付いていないとか、発表されなかったかも知れません。)になります。割とシンプルだったり特徴が無い曲であることが多いですね。
 2曲目、3曲目と進むにつれていろいろとアイディアが盛り込まれ、曲の規模が大きくなって行きます。
 そしてついに行くところまで行ってしまいます。この曲の特徴は、大規模の上、散漫で無駄が多いような印象になります。交響曲を書いたのではなく、交響曲に書かされた、と言うことになるのでしょう。便宜的にここで「欲張りな曲」と言うことにしましょう。
 作曲家はここで、「これではいかん」と思うのです。きっと。そして次の曲は、内容を絞って書きたいことだけを書きます(多少語弊がありますが、テーマ性がはっきりすると言うことでしょうか)。作曲者らしさが出た引き締まった無駄の無い曲となります。つまり一皮剥けるわけです。この曲がブレイクして名曲となるのですね。
 後は、命の続く限り名曲を生んでいく、、、。

 このパターンに当てはまりそうなのが、ベートーヴェン、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、ショスタコーヴィチなのです。(あれ、4人しかない。でも、とりあえず「9曲で打ち止め説」より当てはまる作曲家は多いぞ。)ただし、ショスタコーヴィチの場合は、自分で変えたというより体制に変えさせられたということなのでしょうが。

 それでは、「欲張りな曲」は何番であったかを考えてみたいと思います。

 チャイコフスキー
 第3番『ポーランド』。第5楽章まであります。第1楽章は序奏に葬送行進曲を持ち、第2楽章はドイツ風スケルツォ、第3楽章はエレジー、第4楽章は速い動きのスケルツォ、第5楽章はポロネーズ、といろんな音楽のテンコ盛りです。

 ドヴォルザーク
 第7番。重厚な音作りの上に、派手な造りになっているのでぎこちなさを感じます。「力んでるなあ」とも思います。

 ショスタコーヴィチ
 第4番。全15曲中最大の編成です。演奏時間も70分近く最長。曲想も、暴力的な強音、霧のようなポリフォニー、葬送行進曲、ワルツ、ギャロップ、レントラー、等々多彩です。
 斜体部は、CD(LONDON F32L-20157)の三浦淳史さんの解説からの引用です。

 そしてベートーヴェンは、
 第2番なのです。雲吹定期の解説でも書きましたが、第1楽章の序奏が迷っている感じでゴチャゴチャしたところがあります。その他の楽章も結構派手な割には主題が見えにくく今ひとつすっきりしません。それでベートーヴェンは古典形式の交響曲に限界を感じ『英雄』以降の新しいスタイルを作ったのかな、と思います。

 これらの曲はあまり有名でなく、コンサートで聴く機会も少ないのですが、何故か私は惹かれてしまうのです。皆さんも機会があったら聴いてみてください。

【蛇足】
 トリビア的にいうと「ブレイクする前の曲は『欲張り』である。」となりますね。そんなことを、先日チャイコフスキーの『ポーランド』を聴きながら考えておりました。


【6月3日訂正】
 「虚大な曲」という表現を「欲張りな曲」と改めました。


【参考文献】
http://ja.wikipedia.org/wiki/交響曲

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