第22話 私は、トリガを、
遊は教室に着くと、すぐに戦闘服に着替えて機銃を組み立てた。
準備はとりあえず整った。遊はイスではなく机に座りながら黒板を見る。クラスメイト達からの伝言がチョークで雑に書かれている。
『やられちまえ』
『シノノメには勝てねーよ』
『どっちも死ね』
見事な嫌われっぷりだ。
薄荷もそうだが、本当に私はドコに行っても嫌われ者だ。
もう、どうでもいいけど。
カウンタで時刻を確認する。
本鈴まであと二分くらい。遊は機銃を構えて、指をトリガにかけてみる。
目の前に立つ薄荷をイメージする。
トリガ。
薄荷が自分に向かって撃ってくる。
トリガ、トリガ。
うん、大丈夫だ。
私はトリガを引ける。
心が切り替わる。遊は兵士としての今までの自分を思い起こす。撃たれる前に撃て。躊躇せず撃て。死にたくなければ撃て――
――僕と戦って、遊。
遊はあの夜の薄荷の顔を思い出し、心の中でトリガを引く。
そうだね、そうだったよ、薄荷。
――私達はトリガを引き合うことでしか、交われない。
本鈴が鳴った。
遊の心臓が飛び跳ねる。身体じゅうの血が一瞬で沸騰したように熱くなる。遊は机から降りるとすぐに教室の扉まで移動する。
どうする? すぐに飛び出すか。
でも、もし廊下で待ち伏せされていたら危険だ。かといっていつまでもこんな場所に留まるのも得策じゃない。
ダメだ。迷うな。
遅いぞ。反射で動け。
勘で正しい選択を積み重ねていけ。
今までもそうやって生き延びてきたんだ。
遊は震える手で教室の扉を開け放ち、その場で姿勢を低くして廊下を見る。
息を飲んだ。
機銃を手にした薄荷が十メートル程前方に立っている。薄荷は構えてはいない。機銃の銃口は下を向いている。顔は絆創膏だらけで眼帯で左眼を覆っている。表情はない。
「どうしたの? 遊、隙だらけだよ」
薄荷の声にも特に感情は感じられなかった。
私はもう機銃を構えている、薄荷の方がよっほど隙だらけだよ――遊は心の中で叫んでいた。でも、喉から声が出せない。怖い。絶対的に有利なのに、手元が震えて狙いが定まらない。
トリガが引けない。
「……」無言で薄荷は銃口を向けてくる。
「――!」
遊は機銃を抱えて、踵を返す。
全力でジクザクを描いて、廊下を駆ける。
少し後ろで音がした。
銃声だ。
薄荷がトリガを引いたんだ。
そう考えただけで、涙が滲んだ。
薄荷の放つ弾丸はリノリウムの廊下をへこませて跳ね返る。
その音を遊は背中で聞き、確実に死が近づいていることを感じ取る。遊はジグザグに走るにしろ、常にリズムを微妙に調整し、相手に次の位置を捕捉させないようにしていた。でも、薄荷の弾道がじょじょに自分を追い詰めていることは確かだ。自分ではわからないクセでもあるのか。
応戦しなければ勝てない。
しかし、今立ち止まって振り向くなんて自殺行為だ。
走る速度を落とさずに身体の向きを変えなければ。
三十メートル先の左側に階段がある。
選択肢は三つ。
階段を登るか、降りるか、無視してこのまま走り続けるか。
走り続けるのはありえない。いずれ壁に阻まれ立ち止まることを余儀なくされる。登るのもない。走るスピードが確実に落ちる。
このままの速度で曲がって、踊り場まで一気に飛び降りる。そして、曲がってきた薄荷を、曲がった瞬間の薄荷を狙い撃つのが正解だ。
自分が曲がった瞬間、薄荷に撃たれる可能性もあるけど、せいぜい動作にフェイントを入れて当たらないことを祈るしかないだろう。
右側の消火柱の赤いランプが砕けた。
ちょうど階段に差し掛かる。
よし! フル・オートじゃないならコンマ数秒の間が絶対に空く。
フェイントより速度重視に変更だ。
遊は減速なしでカーブを直角に曲がり、すぐさま跳んだ。
十段分の階段を一気にショートカットする。
空中で体勢を百八十度回転させながら、銃口をさっきまで自分の居た位置に向ける。
走りこんできた薄荷を撃つ。
トリガを引く。
それで、終わりだ。
遊の足が階段の踊り場に触れる。
立つ。
足場を固める。
脇をしめる。
狙う。
薄荷が来た。
隙だらけだ。
どうしたの薄荷、危険なのわからなかったの?
匂いしなかったの?
遊は心の中で、薄荷に話しかける。
その間にもトリガにかかった右手の人差し指は、運動を始める。
遊の脳からの指令に、筋肉が動く。
刹那、薄荷が目を細める。
――笑った?
遊の脳から新たな指令が全身に飛んだ。
右手の人差し指は停止し、代わりに両足は全力で踊り場を離脱した。階段を転げ落ちるように駆け下りる。遊は全身が震えていることに気付く。背中に汗をびっしょりかいている。怖いんだと遊は思う。怖くて怖くて、初めて戦闘に出た時よりもずっと怖い。
でも遊にはその恐怖の正体がわからない。
一階に着いた。
どこに行くべきか一瞬迷ったが、とりあえず足は止めなかった。
今、足を止めることは死ぬこととほとんど同義だ。
薄荷の駆けてくる足音がする。
でも、発砲はない。
却って不気味に感じる。
振り向きたい衝動を何とか抑えこんで、遊は廊下を走る。
右側の窓ガラスが割れた。
薄荷が一階で初めて撃った。
でも、まるで意味のない攻撃だ。
まるで、降りてきたことを教えるかのような。
今日の薄荷は何かおかしい。
顔じゅう怪我をしていたから、もしかして眼に何か大きなダメージを負ってしまったのかもしれない。
あの夜、教官達に暴行を受けていた薄荷の姿が遊の頭で再生された。
遊はぎり、と奥歯を噛んだ。
ヤツらに腹が立った。
こうして、今自分がメリットを受けているとしても薄荷を傷つけた大人達を許せなかった。
なのに、自分も今こうして薄荷と戦っている。
あははは。
悲しすぎて、笑ってしまう。
今度は天井の蛍光灯が砕け散る音がした。後ろの少し離れた場所のようだから害はない。
遊は左に曲がった。
昇降口が見えた。
このまま、外に出るか?
校庭の方が当然視界は広くて攻撃はしやすい。校舎の中は遮蔽物が多い。
攻撃重視なら校庭で、逃げるなら校舎だ。
予感がして、遊は真横に跳んだ。
すぐに薄荷の描いた弾道が床を跳ねた。
さっきより精度が増している。
目のダメージによるブレがなくなってきている。
慣れてきたんだ。
さすが、と遊は感心した。
やっぱり薄荷は今まで出会った兵士の中でも飛びぬけている。カウンタ300オーバーは伊達じゃない。あの子はまぎれもなく天才だ。
そう再認識すると、遊は絶望的な結論を導き出す。
やはり、私では薄荷には勝てない。
もう二度も勝てる機会を逃している。こんなことをしていては幸運の女神も今頃そっぽを向いてドコかに行ってしまっているだろう。
ダメだ。
私はここで死ぬ。
それなら――
遊は昇降口を駆け抜けると、校庭に出た。
薄荷の花畑を目指して、走る。
最後に、薄荷の植えたあの花をそばで見たいと遊は思った。
強い横風が吹いている。その中を切り裂くように、体勢を低くして遊は校庭を疾走する。砂埃が舞っていて、トラックの外周に植えられた木々が枝を鳴らしていた。
もうセミは鳴いていない。
薄荷と初めて会った時は夏真っ盛りで、毎日セミがここで合唱していた。
でも、もう季節は過ぎた。
セミは鳴かない。
遊の耳に自分以外の者の足音が届く。
薄荷が追って来た。
遊はごくんと唾を飲み込む。
あの花のところまで生きてたどり着けるだろうか。
不規則な軌跡を描きながら走る遊はそんなことを考える。
せめて、そのくらいは許して欲しい。
風が弱くなる。
ヤバイ。
今まで薄荷の視界をいくらかは砂埃が覆って邪魔していたのに。
こんな何もないところで、背中を晒している事実に恐怖が走る。
フル・オートで一秒撃たれたらもうそれで終わりだ。
胃がぎゅっと萎縮した。涙が勝手にこぼれた。
怖い。
怖い、怖い、怖い!
でも、あと少しであの花の場所に着く。
遊はもたつく脚にこれが最後だからと、気合を入れさせた。
もうジグザグに走ってはいない。
目標に向かってまっしぐらだ。
古い百葉箱と薄荷のプランターが遊の目にしっかりと映る。
ダイヤモンドリリーが微かな風に吹かれて揺れていた。
白や薄いピンクの花弁が可愛らしい、小さな花だった。
遊は立ち止まり、破顔した。
キレイに咲いたんだね。
良かったね、薄荷。
遊は笑顔のまま、振り向く。
薄荷がまっすぐ駆けてくる。
遊は驚く。薄荷は機銃を構えていない。
ただまっすぐにこっちに向かって走っているだけだ。
遊の身体が自然に機銃を構えさせた。
指が動いて、レバーをフル・オートに切り替える。
三度目の機会がやってきてしまった。
今すぐにトリガを引けば――勝てる。
いかに薄荷が並外れた反射神経をしていても、薄荷の現在位置とそこから一秒以内に移動できる箇所すべてに弾丸を叩き込んだら避けることなどできない。
今すぐトリガを引け。
薄荷が機銃を構える前に引け。
今なら、確実に勝てるんだ。
生き残れるんだ。
引け。
撃たれる前に撃て。
躊躇せず撃て。死にたくなければ撃て。
簡単なことだ。
今までやってきたことだ。
トリガにかかった人差し指をあと数ミリ動かすだけだ。
遊は呼吸を止める。
神経を集中させる。
そして、遊は、トリガを、