第11話 過去と墓標
数時間ぶりに網膜に届いた光は思いの外眩しかった。
遊は目を細めて、正面に立つ泉野をにらむ。
「ごめんね、場所を覚えられると困るから」泉野は遊から外したばかりのアイマスクを指に引っ掛けてくるくる回していた。遊はパイプイスに腰掛けたまま周囲を見渡す。せまっ苦しい部屋だった。壁は木造で中央に置かれたテーブルも簡素な木製。窓にはぶ厚いカーテンがぶら下がっていて外は見えない。それ以外物は何もない。左隣に薄荷が、右隣に冬子が同じくパイプイスに座っていた。薄荷は遊と同じくアイマスクは外されていたが、冬子だけはアイマスクに猿ぐつわ、おまけに後ろ手に手錠をはめられていた。正面に立つ泉野の他には戸口に機銃を持った少年が一人立っている。
「説明してもらっていいですか?」遊は常に泉野の持つ拳銃を視界に捉えながら声を出す。
「何が聞きたい?」笑顔のまま泉野が訊き返す。
「とりあえず、私達を殺す気なのかどうかです」
「何で自分達が捕まったとかはいいの?」
「興味はあります。でも、最優先事項じゃありません」
「なるほど、その通りだ」泉野は銃口を遊の方に向けた。
力を抜いているようで泉野の動作には隙がない。さすが最後まで生き延びた兵士だ。遊の心臓の鼓動が速くなる。
「泉野さん、もし遊を殺したら」薄荷がパイプイスから立ち上がる。出口に立っている少年が機銃を薄荷に向けた。それでも薄荷は泉野を見据えたまま言葉を続ける。
「ここにいる人達を、僕が皆殺すよ?」
薄荷の声は嬉しそうだった。
一瞬で静寂が訪れる。時間が凍ったようになる。
今この場にいる薄荷以外全ての人間が戦慄する。
遊はごくりと喉を鳴らした。
怖かった。
目の前の銃口よりも、戸口で機銃を構える少年よりも、隣で殺気立つ薄荷の方が数倍怖かった。
「――冗談だよ、薄荷くん」泉野は拳銃をテーブルに置いた。「私は君達と同類なんだよ。君達を助けたいとは思っても殺したいなんて思わないよ。サンドイッチ美味しかったでしょ?」泉野はフォミレスの時と同じように両手をあげて戦意のないことを表した。入り口の少年も泉野の動作を見て機銃を床に置いた。
「君達二人を傷つけたりはしないよ。約束する」
「……わかりました。――薄荷」
「……わかった」薄荷はパイプイスに再び腰掛けた。
「とはいえ、このまま黙って帰すつもりもないの」泉野は遊達のそばに歩み寄り、二人の肩に手をのせる。「続きは外で話そうか。見てもらいたいものもあるし。それを見ながら聞いてもらったほうが説得力もあるからね。それでいい?」
「今の私達に選択権はありません」遊は息を吐いて答えた。
「意地悪だな~。じゃあ、行こうか」
泉野は戸口の方へ歩いていく。遊は立ち上がってその背中についていく。薄荷は立ち上がった後、残された冬子のことを気にかけている。
――とりあえず、今は相手の出方を見るしかない。
「薄荷」
遊は冬子の耳元に何か話しかけている薄荷に声を投げる。
「うん、今行く」
薄荷は冬子の頭を優しく撫でた後、遊の方へと駆けてきた。
冬子は嗚咽まじりの何かを懇願するような声をしきりにあげている。遊はその声を聞くのがツラくて薄荷が来ると急いで外に出た。
***
「あの廃駅はさ、私達が武器とか薬とかの取引に使ってる場所なんだよね」
遊と薄荷は泉野に連れられて森の中を歩いていた。今までのじめっとした暑苦しい空気が徐々にひんやりとしてくる。木漏れ日が揺れる中、落ちている小枝や雑草を踏みしめて前へと進む。道は細くていつ途切れるかわからないくらい頼りない感じだ。きっと獣道なのだろう。泉野は初めて会った時と同じように人懐っこい笑顔でしきりに遊と薄荷に話しかけてくる。が、遊と薄荷はほとんど泉野の話題にのらなかった。「嫌われちゃったかな~」泉野は嘆息しやがて黙り込んだ。
三人分の足音がしばらく規則的に続き突然の風が木々をざわめかせた時、薄荷がぽつりとつぶやいた。
「海の匂い」
「そう、近くに海があるよ。薄荷くんが行きたがっていた海。たまたま薄荷くんの目的地と私達のアジトが近所だったんだね」泉野が前を向いたまま話しかけてきた。「ほら、もうすぐだよ。開けてきたでしょ?」
泉野の言葉通り、細かった道の先に広場のような場所があった。遠目にはただの空き地に見えたが近づくにつれそこが奇妙な場所であることがわかった。
数え切れないほどのトタン板やベニヤ板が地面に整然と並んで突き刺さっていた。高さはそろってなかったがだいたい1メートルくらい。遊はそのうちの一つに近づく。元は廃材のようだが、チリひとつついていない。きっと毎日誰かが拭いている。そして、何よりも目を引くのは黒ペンキで書かれた知らない誰かの名前だった。
これは、
「お墓」
遊ではなく薄荷の声だった。
薄荷は泉野と並んで、ゆっくりと遊のそばに歩いてきた。
「知ってるの? 薄荷くん」泉野が隣の薄荷にちらっと視線を移す。
「うん」薄荷は泉野も遊も見ず、前方の一点を見つめたまま答えた。「毎年、ここに来てる。今年もここに来るつもりだったから」
薄荷の視線の先には杖をついて歩いてくる少年がいた。
「東雲、お前何しに来たんだ?」
杖の少年が眉をひそめた。
「隆弘のお墓参り」薄荷は少年を見て何故か悲しそうな目をした。「友哉、レジスタンス、入ったの?」
「ああ」友哉という名の少年はめんどくさそうに答えた。
「やめてって言ったのに」
「五月蠅い。俺はお前の指図なんか受けない」
「隆弘が生きていても同じことを言うと思う」
「お前が兄貴のことを言うな!」
友哉は杖を振り上げると薄荷に投げつけた。杖は薄荷の顔に直撃した。薄荷は小さなうめき声をあげて膝を折る。杖を失くした友哉もその場にうずくまった。
薄荷は額を押さえてうつむいている。
地面に血が点々と落ちた。
「薄荷!」
遊は薄荷のところに駆け寄り、「薄荷、見せて」額の傷を確認する。
たいした傷ではなかった。遊は安堵の息を吐く。そして、ハンカチを取り出して薄荷の額に当てた。すぐに疑問が胸に湧き上がる。
どうして薄荷は避けなかったんだろう?
「友哉、何をやってるの」泉野が地面にうずくまる友哉の前に立つ。「この子達は私の大事な客人なんだよ? はっきり言って今、私はとても怒ってる」
「い、泉野さん。だって東雲は」
「いいからまず立ち上がりなさい。上官と寝そべって話しをするつもり?」
「は、はい」友哉はふらふらとバランスを取りながら何とか立ち上がろうとする。あきらかに右足がロクに機能していない。左足だけで、体重を支えて懸命に身体を起こし、
「遅い」
泉野が友哉の左脚をかかとで蹴る。
友哉はすぐにまた無様に地面に倒れた。
「あなたは命令なしに誰とも戦うなって、私何度も言ってるよね?」泉野は友哉の顔を踏みつける。「ねえ? 言ってるよね? 返事は?」
まるで靴底についた泥をマットで拭うかのように泉野は友哉の頬に体重をかけて靴を擦り付ける。
「は、はい! すみませんでした!」
「本気でそう思ってる? 口先だけの返事なんていらないよ?」泉野はまだ友哉を踏む足をどかさない。
「泉野っ!」薄荷は素早く起き上がると、遊を押しのけるようにして前に出て泉野の真後ろまで一気に距離をつめた。
「おっと、怖い怖い」泉野はすぐに飛び跳ねるようにして、友哉から離れて身体を半回転させ薄荷を見た。
「ごめんごめん、嫌なトコ見せたね」泉野は薄荷の力のこもった視線を受け流すように表情をやわらげる。「でも、友哉はウチの兵士だから勝手なことされると困るのよ。見ての通り友哉は脚に障害がある。そんな子は人一倍気をつけて行動しないとあっという間に殺されちゃう。自分の生命線である杖をいきなり投げるなんて馬鹿にも程があるでしょ? 私は友哉のそういう所を直したいのよ」泉野はそう言って、友哉を抱き起こした。「たとえ、友哉に嫌われたとしてもね」泉野が口の端を曲げた。
「……本当にすみませんでした」友哉が泉野に支えられながらつぶやいた。
「友哉」薄荷が拾った杖を友哉に差し出した。
「……」友哉は黙ったまま、それを受け取った。
「友哉はこれから薄荷くんを小屋に連れてって傷の手当てをしてあげなさい」泉野が友哉から身体を離す。
「え? で、でも……」
「命令よ」
「……わかりました。来いよ」
友哉は薄荷の方を見ずに吐き捨てるように言う。薄荷は遊の手渡したハンカチで額を押さえたまま立ち尽くし困ったような顔をした。
「行ってきなさいよ、薄荷」
「う、うん。これ、ありがと」薄荷は遊にハンカチのお礼を言って歩いていく友哉を追った。
「あ~。怖かった~」泉野が薄荷と友哉の後姿を見送りながら苦笑した。「薄荷くん、すっごい怖いよ。南野さんもすごいけど、あの子は特別だよね。あの子カウンタいくつなの?」
「360です」
「え? 何それ」
「泉野さんが言った通り薄荷は特別なんです。戦歴が普通じゃない。いったいいくつから兵士をやっているのか本人も認識していないんです」
「ふーん、つまり薄荷くんはプレイヤーが言うところの〝レアキャラ〟なんだね」
「大人達が私達をどう呼んでいるかなんて興味ありません。それより」遊は泉野の目をまっすぐ見据えた。「そろそろ泉野さん達の目的を教えてもらえますか?」
「うん、笑わないで聞いて欲しいんだけど……約束できる?」
「笑えるくらい楽しい話なら逆に嬉しいです」
「あははは、南野さんは手厳しいなあ~。まあ、いきなり銃を突きつけられて連れてこられたんじゃあ仕方ないか」泉野は指先で鼻をかく。そして、遊の視線を受け止めて答えた。
「私達の国を作るつもり」
遊は一瞬思考が停止した。
「この辺り一帯を私達の国にする。この国から独立する」
「……」遊は何も言わない。
「どうしたの? 南野さん急に黙っちゃって」
「呆れてるんです」
「何で?」
「いい大人が考えることじゃありません。不可能です」
「でも、さっき薄荷くんが言った通り、私達はレジスタンスなんだよ? レジスタンスの究極の目的はそこでしょ?」
「この国の軍全部を敵に回すことになりますよ」
「まあ……形の上ではそうなるね」
「形の上じゃなくて、実際にそうなります。勝てっこありません」
「こらこら、いきなり結論出さないでよ」
「泉野さんの組織に何人兵士がいるか知りません。でも、絶対軍の戦力は超えていないと思います」
「兵士は百人くらいかな~。まだ全員分の機銃もそろってない」
「……軍事学校一つ分の戦力もないじゃないですか。簡単に制圧されます」
「制圧か~。やだなそれ。捕まったら確実に処刑されるし~」泉野が両手を首の後ろに回して苦笑する。
「冗談で言ってるんじゃないんですけど」遊は泉野をにらむ。
「私も冗談でこんなことやってるんじゃないんだけどな。本気でこの国から独立したいと思ってる。そして、ゲームなんて残酷なものから君達みたいな子を解放してあげたい」
え?
「だって、おかしいと思わない? 何で、憎くもない相手を殺さなきゃならないの? 私は七年間ずっとそう思い続けながらトリガを引いてきた。ねえ、どうして南野さんはトリガを引いてるの?」泉野は誰かの墓標の前に膝を折った。
「……殺さないと、自分が殺されるからです」
泉野の問いに遊の口から自動的に答えが出た。それは何度も自問自答してきたことだからだ。
「どうして、殺されるの?」
「……戦争だからです」
「どうして、戦争に参加してるの?」
「……他に生きる道がないからです」
この後、どうして生きていたいの? と問われたらどうしよう。
遊の中に明確な答えはなかった。
そんなあやふやな気持ちで、トリガを引いているのかと糾弾されたら遊は何も言い返せない。
「それがおかしいんだよ。どうして貧しいからって、私達が金持ちを楽しませるために殺し合いショーをやらないといけないの? それが嫌なら男の子ならどっかで馬車馬のように働かされる奴隷だし、女の子なら身体でも売るしかないよね? まっとうな仕事には金とコネクションがないとつけやしない。今の私だって退役して軍から身分を証明してもらったからファミレスで働けてるんだよ。そうでなきゃ、あの頃の私は娼婦か自殺しか選択肢はなかった。南野さんだって、似たようなものでしょう?」
「同じです。娼婦が嫌で軍に入りました」
「……だったら、わかって欲しいな」
「何をですか?」
「私達が間違ってないってことを」泉野は墓標をいつくしむように指先で撫でている。遊にはその様子がとても神聖な儀式のようなものに見えた。
「間違ってはないです。でも……」その先の言葉を遊は飲み込む。
「でも?」しかし、泉野はそれを許さない。
「……それでも、泉野さん達は勝てないです」仕方なく遊は答えた。
「ふふ、冷静だね。私、あなたのこと気に入ったよ」泉野はにっと子供のような笑顔を浮かべると立ち上がった。「ますます仲間にしたくなっちゃったな~」
「仲間?」
「うん。二人をここに連れてきた理由の一つはそれだよ」
「それは、」
無理ですと言いかけたところに「ただいま」と薄荷の声がした。額に包帯を巻いた薄荷が両手でバケツを持って歩いてくる。
「おかえり。悪かったね薄荷くん。ウチの子がおいたして」
「ううん、全部僕が悪いから」薄荷はふるふると首を横に振った。
「君と友哉のこと聞いていい? あと隆弘って子のことも」
「隆弘は友哉のお兄さんで、前、僕と同じ部隊だった子」薄荷は足を止めてバケツを地面に置いた。そして、あるベニヤの墓標を見つめる。
「友哉に兄弟がいたの。初耳だな」泉野は薄荷のそばへと歩いていく。遊もそれにならう。
「戦死して、ここで眠ってるの?」泉野はひしゃくで墓標に水をかけている薄荷に尋ねた。
「うん。僕が殺した」まるで紙に書いてある文字を読むような口調で薄荷は言う。
「……事故?」気がついたら遊の口から言葉がもれていた。薄荷は首を振って「セレクション」とだけ答えた。
「セレクションか。あれはエゲつないよね」泉野が顔を歪める。
「……」遊も唇を噛んだ。
セレクションは所属する部隊に関係なく優秀な兵士同士を戦わせどちらが生き残るかを賭けてプレイヤーが楽しむ突発イベントだ。だいたい、戦況が膠着化しゲームにプレイヤーが飽きだすと軍が兵士を選抜し開催することが多い。
「下手に優秀だとやらされるからね。薄荷くんなら当然何度もあるでしょ?」
「六回。そのうち二人は同じ部隊の子だった。全員、殺した」薄荷は無機質な声で話し続ける。「友哉はいつも隆弘が守ってたけど、隆弘が死んでからすぐに大怪我して部隊を抜けたの。ずっと気になって探してた」
「そしたら、ここで墓守をしてたと」薄荷の言葉を泉野が引き継ぐ。薄荷は頷いた。「去年ここに来た時、働いてた」
「……でも、兵士の死体なんて軍が処分しちゃうでしょ? どうしてお墓なんてあるの?」遊は薄荷の横に立つ。薄荷は遊がそばによっても何の反応もしない。まるで魂が抜けてしまったように、ぼんやりとした視線を隆弘の墓標に向けている。
「だから、ここが元々軍の死体置き場なのよ。ほとんど軍の関係者は来ないから存在は希薄だけどね。もう兵士として使えなくなった友哉を軍がここに配置したってこと」
遊の疑問に泉野が答えた。
「この地面の下には、何千人、何万人分の子供達の亡骸が埋まってるんだよ。兵士の遺体は基本的には学校の焼却炉ですぐに燃やされるけど骨はどうしても残るからね。それがダンボールにつめられてここに届くんだよ。だから、隆弘って子の骨がこの墓標の下にあるかどうかは本当はわからない。でも、たぶんここのどこかにはある。墓標は単なる飾りみたいな物よ。だけどね」泉野は隆弘の墓標の前で手を合わせた。「何か残ってないと、どこで死んでいった子達を悼んでいいのかわからないじゃない。お墓ってね、死んだ人じゃなくて、生き残った人のためにあるんだよ」
泉野が遊にやわらかい笑みを向けた。
「隆弘って子はまだ幸福だよ。こうして毎年友達の薄荷くんが来てくれる。たいていの子は誰にも思い出されることもない。ただ、ここで土に還るだけ」
薄荷は途端に激しくかぶりを振った。
「違う。僕は隆弘の友達じゃない」
「薄荷?」遊は薄荷の返答に少し驚く。
「僕は隆弘を殺した。トリガを引いちゃった。隆弘の友達のわけないよ」
「……戦争なんだから、しょうがないよ」遊が声をしぼりだす。
「隆弘泣いてた。友哉がいるから死ぬわけにはいかないって、泣いてた。でも、僕は隆弘を殺しちゃった。別に僕には誰もいないのに。自分が死ぬのが怖くて隆弘を、僕は」
「そんな感傷さっさと捨てなさい!」遊は声を荒げる。そして、薄荷の胸倉を掴んで顔を無理矢理あげさせた。「私達はもう散々たくさんの子達を殺めてきたんだよ! その事実は消えない! 私達のカウンタに刻まれてる! その中に誰が混じってようとそんなの関係ないよ! 割り切るしかない。たとえ相手が誰でも迷わずトリガを引きなさい。そうしないと――」
今度は薄荷が殺されちゃうよ。
言いかけて、遊は言葉を切る。
……どうして、こんなに必死になるんだろう?
「……っ!」遊はつきとばすようにして薄荷を解放する。薄荷から視線を外す。
薄荷も遊を見ない。
「二人とも気持ちはわかるけど、もうよしなよ」泉野が空になったバケツを手にした。「ここからちょっと行ったトコに海があるから行ってきたら。後片付けは私がやっとくから遊んでおいで」
「……」薄荷は何も言わず、遊と泉野に背を向けると頼りない足取りで歩き始めた。
遊はそんな薄荷の背中をじっとにらむ。細い身体がいつもよりも弱々しく今にも折れてしまいそうだった。薄荷の姿が見えなくなる頃、泉野は微笑して、遊の頭の上に手のひらを置く。
「ほら、南野さんも行ってきなよ」
「いいですよ。別に行きたくありません」
「仲直りはなるべく早くしたほうがいいんじゃない? 薄荷くんのこと好きなんでしょ?」
「全然好きじゃないです」
「あはは、素直じゃないな~。ま、海は逃げたりしないから、いつでも気が向いたら行けばいいよ」
「いいんですか? 私達、逃げるかもしれませんよ?」
「もちろん、この辺一帯は仲間が各ポイントで見張ってるよ。でも、君達はたとえ逃げても軍に密告はしないでしょ? だから、自由に行動していいよ。あ、薄荷くんが戻ったらご飯にしよう。大したものはないけど我慢してね」
泉野はそう言い残すとバケツを持って友哉のいる小屋の方へと歩き出した。
遊は少しだけ迷って、やはり海には行かないことにした。
今、薄荷と話すと余計なことを言ってしまいそうだ。
隆弘の墓標をあらためて観察すると、黒ペンキで書かれた筆跡には見覚えがあった。薄荷の字だ。遊は指先でその文字をなぞってみた。
薄荷はこの名前を書いている時、どんな気持ちだったのだろう?
そんなことを考えると、ふいに視界がぼやけて涙が落ちた。
くそ。
悔しい。
今の自分にトリガを引きたい。
遊は右手の甲で、強く涙を拭った。