プロローグ 娼館の少女

 
 覚悟はできていたはずだった。

 高架下を全力で走り抜けながら、南野遊《みなみのゆう》は頭の片隅でそんなことを考える。

 娼館に売られた時からこの日が来るのはわかっていた。全て納得している、だからここに置いてください、と二年前養父に頭を下げたのは誰あろう自分自身だ。そうでなければ誰が何の役にも立たない無駄メシ食いを養うものか。養父は今日という日を指折り数えていたに違いない。今まで投資した金の回収が始まる日を。

 今朝、朝食を摂るためにテーブルにつくと養父は上機嫌だった。遊の席には一輪挿しが置いてあって白の秋桜が遊の方を向いていた。今夜からお前は客をとるんだ、と念を押すための習慣らしい。少女達はその一輪挿しが置かれると泣き崩れ朝食を摂ることも忘れて己が運命を呪うのだ。そして破瓜の夜を越えてしだいに男に媚を売るのが上手い娼婦へと成長していく。

 遊は一輪挿しを見つめながらトーストと目玉焼きとサラダを無理矢理胃につっこんだ。

 先輩娼婦達はそんな遊を見て薄笑いを浮かべていた。

 お前も今夜汚されてしまえばいい。

 彼女達の目はそう言っている。

 そんな視線に反発するように遊は朝食をすっかり平らげてみせた。

 普段と何も変わらない学校での授業を終えて、遊が娼館に帰るとすぐに養父に捕まった。身支度をさせられる。今夜の客は大変な上客だからくれぐれも粗相のないようにと何度も言われ、一時間かけて身体を洗わされ今まで着たことのない上等なドレスを着せられた。養父に呼ばれた老婆が遊の髪を丁寧に梳く。老婆は終始無言だった。遊は老婆に私もおばあちゃんみたいに髪を切ったりする人になりたかったな、とつぶやいた。その時、一瞬だけ老婆の手が止まった。別れ際、老婆は古くなったはさみを遊に与えて娼館を去った。

 準備が整う頃、窓の向こうはすっかり暗くなっていた。遊は急かされて二階の客間へと足を運んだ。ノックをする前に扉が開く。遊の最初の客となる男が下衆な笑みを浮かべて立っていた。いきなり肩を抱かれて唇を奪われる。男の髪から遊の頬に水滴が落ちた。さっきまでシャワーを浴びていたのだろう。もう準備はできているということか。

 そうわかった途端全身に鳥肌が立った。

 遊は男の手の甲に爪を立てる。男が痛みにうめいた瞬間、思い切り突き飛ばして部屋を飛び出す。そのままの勢いで娼館のロビーをつっきって玄関を抜けた。遊は養父の罵倒する声に怯えながら夜の闇へと逃げ込んだ。

 覚悟なんてまるでできてなかったのだ。

 遊は高架下をくぐった後、四つ角を左に曲がる。学校帰りに通る裏道だったがこんな時間帯に来るのは初めてだ。いつも静かに黙りこんでいるエアコンの室外機は異音と熱風を撒き散らしていたし見知らぬ風俗店の立て看板がいくつも並んでいる。ローン会社の電飾があんなに毒々しい色だとは知らなかった。遊はまるで見知らぬ場所に迷い込んでしまったように錯覚した。心細さに追い立てられるように足を速める。住宅街へと続く細い道に入り石段を登った。

「痛っ」

 足の爪先が痛む。遊はようやくソックスしかはいてなかったことに気がついた。暗くてよく見えないが血が出ているみたいだ。仕方なく街灯のそばに近よって足を見た。ソックスの足先が両足とも真っ赤に染まっている。驚く。遊は走るのを止めて、息を整えながら歩くことにする。少し落ち着いたせいか身体がさまざまな不満を脳に報告しだした。真夏に全力疾走したから全身汗まみれで気持ち悪い、ドレスの長いスカートがうっとおしい、お腹が減った、喉がかわいた、その他もろもろ。が、無一文で逃走中の遊はその欲求に対して何一つ応えることはできない。遊に今できることは血だらけの足をかばいながら一歩ずつ階段を登ることだけだ。

 だから、たとえ間近に追っ手がせまっていたとしてもどうすることもできなかった。

 遊は悲鳴をあげる間も与えられず、髪をつかまれて倒された。

 苦労してのぼった石段から一瞬で転がり落ちる。

 養父の怒鳴り声。興奮しているせいか言葉になっていない。

 背中を路面でまともに打った。痛みで呼吸が止まる。遊は声をまともにあげることさえできなかった。すぐに養父が馬乗りになって狂ったように殴ってきた。

 顔、腹、頭。おおよそ遊の身体は残らず痛めつけてやるといわんばかりに養父は両腕を振り回す。遊は抵抗できなかった。痛みより恐怖で身体がこわばっていた。怖くて目を開けることさえできない。

 死んでしまいたいと何度も願う。

 しかし、人はそう簡単には死なないようにできている。

 今まで幾度となくイジメや乱暴をその身に受けていた遊は経験でそれを知っていた。

 自身の力をもって対処するしかないのだ。

 たとえそれがどんなに無理なことであろうと。

「ぐっ!」

 養父の拳が遊の頬にめり込んだ。血の味。たぶん歯が折れた。遊は舌で口の中を探った。すぐに固いカケラを見つけた。遊は薄く目を開いた。街灯の光が逆光になって、養父の表情は見えなかった。それが幸いした。養父の顔をまともに見たらきっと決心できなかった。

 遊は口の中で折れた歯を転がす。

 機会を待つ。

 養父が腕を振り上げる時を待つ。

 振り上げた。

 遊は上半身を起こす。

 養父の顔面と自分の口元との距離をできるだけつめる。

 瞬間、虚をつかれて養父の動作が鈍った。

 折れた歯を養父の目の位置と思われる箇所に向かって、吐き飛ばした。

「ぐわっ!」

 遊の身体にのしかかっていた養父の体重が軽くなった。

 でもこれだけでは足りない。

 このまま逃げてもすぐにまた捕まる。

 遊は飛び跳ねるようにして起き上がり、老婆からもらったはさみで養父の脇腹を刺した。

 思った以上にめりこんで自分でも驚く。

 抜いた時、刃が折れた。

 ごめんなさいと、遊は心の中で老婆に詫びる。

 養父は激しく咳き込み、嘔吐してその場にうずくまった。

 養父の吐き出した汚物の匂いが遊の鼻をつく。手が粘性の強い血でべとつく。

 不快だ。

 血といっしょに唾を路上に吐き捨てる。

 遊は養父をその場に残して、再び石段を登りはじめた。


***


 ギーの家は集合住宅の二階にある。

 政府が退役した軍人のために用意したものだ。誰でも入れるわけではない。ある程度の戦果をあげた歴戦の兵士だけが年金とともに与えられるものらしい。何度も命を危険に晒したあげくようやくたどり着くのがこの粗末なアパートなのかと遊はいつも思う。

 遊はペンキのはげかけた手すりをつたって階段を上がり、何とかギーの部屋までたどり着いた。

 台所で何かを洗う音が聞こえる。

「ギー」

 遊は軽くノックをして、薄い扉の向こうに声を投げた。

 すぐに扉は開く。

 やせた中年男が顔をのぞかせた。

「遊? どうしてこんな時間に――」

 部屋から漏れた光が暗闇を照らす。男は遊の姿を見て息を飲んだ。

「こんばんは、ギー」

 遊は微笑する。笑うと口の端の傷が開いて痛い。

「早く中に入れ」

 ギーは遊の手を引いて部屋の中に入れるとすぐに鍵をかけた。足が悪いのに機敏な動作だなと遊は感心する。

「どうしたんだ?」

「乱暴された」

「それは……」

「あ、強姦とかじゃなくて、本当にただ殴られただけ」

 遊の言葉を聞いてギーは唇を噛んだ。

「迷惑じゃなければ、今晩泊めて」

「……手当をしてやるから、風呂に入って来い」

「うん」

 遊はその場で靴下とドレスを脱ぐ。ギーは遊の脱ぎ捨てたドレスについた血痕を見てこれは洗っても落ちないぞとこぼした。

「そんなの捨てちゃえばいいよ」

 遊は下着姿のまま勝手に居間を横切り脱衣所へと直行する。

 曇りガラスの引き戸は半分開いていた。そのまま進入。戸を閉めもせず下着を脱いで洗濯機に投げ込んだ。鏡を見る。頬を腫らして唇に乾いた血をくっつけた自分がいた。遊はすぐに見るのを止めて、ステンレスの浴槽に逃げこむように飛び込んだ。お湯はもうすっかり冷めていた。遊は湯船の中で顔を何度もごしごし擦る。

「遊」

 半開きの引き戸の向こうにギーが立っていた。

「何?」

 遊は額に張り付いた前髪をはがしながらギーを見た。

「着替えはここに置くぞ。男物だが我慢しろ」

「ありがとう」

「腹は減ってるか?」

「減ってる。ねえ、ホットミルク作っていい?」

「この暑いのにか?」

 ギーの声が少しだけやわらいだ。

「うん。暑くてもそれがいい」

「俺が作ってやる」

「ちゃんと砂糖入れてね」

「わかった」

 ギーが背を向けた時、遊は湯船からあがってその背に「私、今日十三になったよ」と言った。ギーは短く「そうか」と答えた。

 それだけ?

「十三になったから、客をとらなきゃいけないの」

 遊はそう続ける。

 ギーは何も言わない。

「だけど怖くて無理だった。だから、」

「じきに慣れる。いや慣れるんだ遊」

 遊の言葉は途中でギーに遮られた。

「無理だよ」

「他の娘達も堪えてるんだ。お前にできないはずがない」

「そんな理屈じゃ納得できない」

「慣れるんだ遊。それしかない」

「だったら、ギーが私の最初の客になってよ!」

 遊は叫んだ。

「……ゆっくりつかってろ。ホットミルク作っておく」

 ギーは姿を消した。

 遊は思わず腕をふりあげる。

 何かを殴りたかった。でも何を殴ればいいのかわからなかった。

 行き場のない拳を仕方なく下げる。

 腰から力が抜けて、浴槽を背に座り込んだ。

 視界が涙と水滴でかすむ。

 漏れそうになった嗚咽を必死に飲み込む。

 助けてくれないなら、今この場で殺して欲しい。

 誰か私を殺してよ。

「ギー、やっぱり私身体を売るのは無理だから」

 この場にいないギーに遊は話しかける。


「戦争に、行くね」