第15話 セレクション
遊と薄荷はセレクションに選抜されたことを伝えられるとすぐさまそれぞれ別のクラスへ編入することになった。結局、夏休み前に夏目達が全滅して補充はないまま他の部隊へと回された形だ。突然のことに遊と薄荷はしばらく何も言わず黒板の前に立つ担任教師をただ見つめていた。担任は自分の役目は終わったとばかりにさっさと教室を出ようと教壇を降りる。
扉が開く。仏頂面をした男子生徒が一人入ってきた。
その生徒は遊に自分はこれから遊が所属する部隊の隊長で遊を迎えに来たことを簡潔に述べた。遊は機械的に頷きはしたが、まだよく頭が動いていない。その生徒とすぐに新しいクラスへ移動することになった。遊はカバンを持って席を立つ。
薄荷の方を見る。薄荷は遊を見ようとしない。声をかけようか迷ったが、何を言っていいかわからない。
遊は黙って教室を去る。
ぼんやりとした思考のまま廊下を歩く。足取りも何だかふわふわしていて現実味がない。
セレクションに私と薄荷が選ばれた?
それって――
「お前、すごいよな」
前を歩く男子生徒が遊に声を投げてくる。遊は無言で声の主を瞳に映す。
「あの東雲薄荷とやるんだろう? お前、どんだけ強いんだよって他の学年でも話題になってるぜ」
その言葉を聞いて、遊はようやく認識する。
ああ、そうか。
――私、薄荷と殺しあうんだ。
***
その日の授業と訓練を上の空でこなし、遊は気がついたら寄宿舎への道を辿っていた。ふと通学路にのびた自分の影を見る。
ここに来たばかりの頃この時間帯に見た影はもっと短かった。
セミの鳴き声が弱々しい。制服のブラウスが汗で背中に貼りついたりしない。見上げる空は遠く高い。入道雲の代わりにひつじ雲が遊の頭上を覆っている。頬を撫でる風の中に微かに次の季節の匂いが漂う。
たった二ヶ月。
それだけで、色々なことが変わってしまった。
たとえ相手が誰であろうと敵ならば躊躇わずトリガを引ける――それが遊の兵士として生きていくための自信であり、鉄則だった。
機銃を持った薄荷を思い浮かべる。
すぐさまトリガを引く自分をイメージできない。
胸に手をあてて、手のひらを見た。きっと本番なら、赤い血がべっとりついている。
遊は息を落とす。
「辛気臭いね、ため息なんかつくんじゃないよ」
寄宿舎の門の前に管理人が立っていた。遊は彼女を一瞥して、その横を無言で通り過ぎようとする。
「あんたセレクションに選ばれたんだろ? そんな気の抜けたことじゃ殺られちまうよ」管理人は遊を見ずに声を出した。
「……そうですね」遊は玄関の中で足を止めて背を向けたまま答えた。
「もしかして、もう諦めちまったのかい?」
「何をですか?」
「生き残ることをさ」
「……それは、諦めてないと思います」伏目がちに遊は言葉を搾り出す。
そう。まだ私だって死んでいいって決めたわけじゃない。
「いいかい? あんたに一つだけ教えてやるよ」管理人は遊の方へと向き直る。「東雲は生粋の兵士だ。戦場に出れば決して迷わない。あんたを殺すことに戸惑いはない。東雲はもう二人同じ部隊のヤツをセレクションで殺ってるんだ」
「知ってます。本人から聞きました」
薄荷はそのことを今でも悔やんでいた。隆弘の墓の前で遊はそれを聞いた。
そして、遊はその時薄荷を叱った。
割り切れと、相手が誰でも迷わずトリガを引けと。
その時の言葉が今、そっくりそのまま自分に返ってきた。
遊は少しだけおかしくなった。
あの時、遊は薄荷にたとえ自分が敵となろうともトリガを引けと言っていたのだ。
でも、少しも後悔はしていない。
薄荷は私にトリガを引くべきだ。
そして、私も。
「私は何も東雲が血も涙もないヤツだって言ってるんじゃないよ? ちょっと馬鹿な子だけどこんな時代にそぐわない素直な子さ。私はね、あの子にだって、あんたにだって生き残って――」
「一人しか生き残れません」遊は強い口調で管理人の言葉を遮る。「そういうルールです」
「……そうだね」管理人は肩を落とす。「すまないね。馬鹿なことを言っちまったよ」
「気にしないでください。部屋に戻ります」
遊はスリッパに履き替えて、廊下を歩く。
管理人の言うとおり、二人とも生き残れたら本当にいいと思う。でも、そんなハッピーエンドはありえない。もうありもしない希望を夢見たりはしない。
私は泉野みたいにはならない。
「あ、そうだ。食事はこれから東雲と時間をズラすからね」
まだ玄関先に残っている管理人が遊に言った。
「どうしてですか?」遊は振り返る。
「さすがにもういっしょに仲良くメシなんて食えないだろう?」
「いえ。薄荷が嫌がらないなら、今まで通りにしてください」
「いいのかい?」
「はい」遊はそう返事すると踵を返した。後ろで「あんた、強いね」と声がした。別に強いとかそんなんじゃない。どっちが弾丸に撃ち抜かれるにしろ、あと少ししか薄荷とはいっしょにいられないのだ。それなら、少しでも薄荷といっしょにいたい。ただそれだけだ。
遊はぎしぎしと軋む階段を上る。
この音を聞くのもあと何回もないのかもしれない。
遊はそんなことを考えながら、部屋へと向かった。
***
「遊っ!」
夕食の時間、遅れてやってきた遊に薄荷がいつもの調子で手を振った。
普段と何ら変わらない薄荷の態度に遊は安堵する。もし、いっしょに食事を摂りたくないと言われたらどうしようと心配していた。
「ご飯とみそ汁、よそってくる」薄荷がテーブルの隅に鎮座している大きな鍋のところに駆けて行き、二人分のみそ汁を用意する。
「うん」遊は代わりに薄荷と自分のオカズをレンジで温めなおしてお茶を入れた。
そういう役割分担がいつの間にか出来ていた。
遊は鮭の切り身と肉じゃが、それに湯のみをトレイにのせていつもの席に移動する。もう薄荷の方の作業は完了していて、軽く二杯分はあると思われる山盛りのご飯と豆腐のみそ汁が遊の席には並べてあった。いつも盛りすぎと注意しても薄荷は「遊は痩せすぎだから、たくさん食べなきゃ」と譲らない。遊は多く食べることも小食で済ますことも自在にコントロールできた。だから、ここぞというとき以外はそんなに食べようとはしなかった。でも、薄荷にはここぞというレアなシーンを見せてしまっていたから食べられないとは言えない。仕方なくいつも全部平らげる。おかげで最近少し体重が気になる。遊は「もう……」と言葉を落とした後、席につくとご飯を口いっぱい頬張った。
「美味しいね」薄荷も鮭の切り身をパクつきながら、遊に笑顔を向ける。
口がいっぱいで声を出せない遊は黙っていた。
何だかホッとする。
薄荷とこうして食事を摂るのが、当たり前になっていた。
もちろん本当は当たり前なんかじゃない。
どちらかがいつ欠けてもおかしくない。そんな世界に私達は生きている。
こうして目の前で幸せそうに自分とご飯を食べてくれる子を、自らの手で消してしまうかもしれない世界で生きている。
遊はたった一人でこのテーブルについて食事を摂っている自分が上手く想像できなかった。
そして、たった一人で食事を摂ってる薄荷の姿は考えたくもなかった。
飲み込め、と頭の中でギーの声がする。
甘っちょろい感傷も、迷いも全てまる飲みにして生き残ることに徹しろとギーが遊を叱った。胸が痛くなる。この痛みも飲みこまなければいけないのか? 遊には明確な答えが出せない。
箸を置いた。
「? どうしたの? 遊」薄荷が頬にご飯粒をつけた顔を遊に向ける。
「ごめん、もう入らないや」ほとんど手付かずの皿を残して、遊は席を立った。「私の食器、後で片付けるから置いといて」
「え? どうしたの? 気分悪いの?」薄荷も席を立って遊についてくる。
「……どうかな。そうかも」
「調子悪いなら、僕がおかゆでも作ろうか?」
「病気じゃないから、心配しなくていいよ」
「でも……」
「それに、あんまり心配されると、私困るよ」
「どうして、困るの?」
「え? だ、だって……」遊は言葉につまる。
「僕が遊を心配したら、どうして遊は嫌なの?」
「違うよ。嫌なんかじゃない」
「でも、遊嫌がってる」
「本当に嫌がってないよ。私、誰かに心配されたことなんてほとんどないから、たぶん嬉しいんだと思う。だけど、薄荷あんたはどうして平気なの? どうしていつもと同じでいられるの? だって私達、来週」
――殺しあうんだよ?
そこまで言葉にはできなかった。
「そっか。遊はセレクションのこと気にしてるんだね」
薄荷が微笑する。
え?
笑った?
「僕は望んで遊と戦うわけじゃない。遊だって本当は僕と戦いたいわけじゃない。そうでしょ?」薄荷がじっと遊を見つめる。
「う、うん。そうだよ」
「お互いそう思ってるってわかったら、それで僕もう充分嬉しいから」
薄荷は目を細めたまま、遊の手を取った。
きゅっと握られる。
薄荷の手のひらは微かに汗ばんでいた。
「それ、どういう意味?」遊は指先に薄荷の体温を感じながら尋ねる。
「僕、前にも二人仲間とセレクションに参加したのは言ったよね?」
「うん」
「その二人は、僕をおおっぴらに殺せるって喜んでたから」
「! どうして?」
「僕、皆に嫌われてたの遊知ってるじゃん」
薄荷は遊の手を放すと、両手を自分の後ろ頭に組む。「ご飯の続き食べよっと」そして、くるっと遊に背中を向ける。
「セレクションの日までは、今まで通りでいようよ」
遊に背を向けたまま、薄荷はそう言った。声と肩を微かに震わせて。
「薄荷」
遊は薄荷を真後ろから抱きしめる。
そうしようと思ったわけではない。
まるで戦場でトリガを引くように身体が勝手に動いていた。
薄荷の身体は一瞬だけぴくっと反応し緊張した。でも、すぐに薄荷は力を抜いた。
「遊びに行こうか」遊は薄荷の髪に顔をうずめたままつぶやく。
「……え?」
「日曜、ヒマでしょ? いっしょにどっか行こう」
「う、うん!」
薄荷の声が明るく弾んだ。
そのことが、ただ単純に嬉しい。
「ねえ、薄荷」遊は薄荷を抱きしめる腕に力を入れる。そして、ようやく笑って声を出した。
「私もご飯食べなおすよ」